会津藩士の御参りに朝日山古戦場に登る
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会津藩士のお参りに、小千谷市浦柄の朝日山古戦場に登ってきました。 司馬遼太郎の「峠」のモデルになった北越戦争の舞台です。 街道を見下ろす朝日山を奪取した会津・桑名・長岡の藩兵、衝鉾隊と長州藩奇兵隊の激しい戦いの場です。 西軍は目標を変えて長岡城を落城させて北越戦争は終わりましたが、ここでも明治政府は遺体のとりかたづけを禁止、特に会津藩兵にはきびしく、放置を命じました。 昭和28年、地元の方たちが戦死の地に墓標を立てて祀ってくれました。
朝日山(341m)は小千谷市浦柄にあり、すぐ脇を信濃川が流れています。 旧17号線がすぐ下を走っています。
朝日山史跡保存会の会長さんからは、車でも登れるようになったと教えていただきましたが、今日は歩いて登ることにしました。
途中には、東軍兵士の墓標が立っています。 父とともに参戦した白虎隊士新国英之介(当時16歳)の墓標です。 現在は舗装した道路のすぐ脇にありますが、このすぐ右手には旧道が残っています。
旧道は下りに使いましたが、いかにも里山といった風情です。 遺体を放置させられたら、すぐに藪に覆われてしまいそうです。
復興記念碑が建っていました。 11年前の中越地震で、この地も大きな被害を受けたそうです。 浦柄地区は、山古志村の入口にあたります。 この舗装された道路も崩壊し、やっと復興、車も通れるよになったようです。
頂上には、駐車場も整備されていました。 約40分の歩きでした。 鉄筋の展望台は、資料館を兼ねています。
墓標ともいうべき、大きな石碑が立っていました。 松平保男氏(容保公の七男で12代当主。秩父宮妃殿下の養父です)の揮毫により、昭和16年となっています。 この大きな石碑は、道路も整備されていない時代に、史跡保存会と地元の方たちの人力によって、ここまで引き揚げられたそうです。
頂上には、東軍野営地とともに、フランス式塹壕が残っています。
そして、何箇所にもこうした墓標が立っています。
展望台から長岡城方面を眺めます。 右手は榎峠で、確かに要所です。 西軍は、この朝日山の争奪を諦め、対岸を長岡に向い信濃川を強行渡河、長岡城を落城させました。
棚田には、鯉が平和裏に泳いでいます。 小千谷市は、鯉の名産地でもありましたね。
麓の浦柄神社です。 ここに遺体を放置させられた会津藩士22人の石碑が建立され、祀られています。
墓地の入口に立っている戊辰戦蹟記念碑は、山本五十六元帥の揮毫です。
会津藩士(放置されていたので、多分会津藩士と思われる)22名の石碑です。 後ろには、会津から移された鶴ヶ城桜が植えられています。
旧17号線脇の榎峠古戦場です。 ここも東軍が制圧しました。 信濃川の崖っぷちの峠だったようです。
榎峠の古戦場パーク。 でもパークでなく、戦蹟ではないかと思うんですが。
県道10号線脇,山屋町の町はずれにある会津藩士の墓です。 忘れられたかのように、ひっそりと立っています。
会津藩士となんとか読めます。 3人の墓だそうです。 会津や小千谷市だけでなく、ここかしこに放置された会津藩士の遺体。 副理事長として、会津弔霊義会という、永遠に「霊を弔うことを義とする」会の重みを痛感させられた,小千谷市訪問との旅となりました。
実際に歩いたGPS図です。
[A記]
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